『まんぷく』第26回感想 世良の名言回

のび太です。

『まんぷく』第26回の感想です。

日々の生活の苦しさに耐えかねて、克子の子供たちが靴磨きの仕事を始めました。一回10銭。今の価値で考えたら10円ほどでしょうか。ラーメン一杯食べるには150回必要です。そういえば前回の放送で牧夫婦はラーメンを二人で二杯注文していましたね。さすが善之介、お金はあるようです。

子供たちの気持ちは分かりますがその程度では生活を改善するには至りません。ここで家計に最も貢献していない鈴がもうこんなタケノコのような生活は嫌だと言い出します。うちのしずかちゃん曰く、『べっぴんさん』でもこんなセリフがあったそうです。着る物を少しずつ売って食いつなぐ生活が、皮を一枚ずつはがして裸にして食べるタケノコと似ているわけですね。萬平もうまいたとえだと感心しています。

でも皮をはがされているのは鈴以外であって、鈴はここでも自分の着物は売らないと譲りません。ちょっとウザさが限界に近づいてきています。ただ確かに、このままではいずれみんな裸になってしまいます。

この日も夕飯はすいとんで、子供たちは毎日の味気ないこの食事に嫌気がさしています。すると福子が、『花子とアン』の想像の翼を広げ始めます。目をつむって食べればすいとんが大福に・・・なりませんでした。この福子も空元気が過ぎてちょっとうっとうしい・・・。

靴磨きを頑張っても何もいいことのない子供たちを不憫に思ってか、鈴がいきなり着物を売ると宣言します。そして翌日さっそく闇市へ。以前は50円と言われて100円まで粘りましたが、鈴が上質だと言い張るだけあってこの日はのっけから150円の値が付きました。それでも憤慨する鈴。そこへ別の青年がやってきて自分が値踏みしてやると言います。「結城紬」といって本当にいい物らしく、これの良さが闇市の人間に分かるわけないと言うこの青年、世良でした。そして福子の隣にいる鈴を見て「福ちゃんのお姉さん?」と聞く世良。さすがお調子者。上手ですね。

世良を連れて帰る福子。世良と萬平が再会します。

今は何をしていると聞かれて、世良は闇屋と同じことをしていると答えます。「違法に仕入れたものを売りさばく。金のないやつから安う買いたたいたものを金のあるやつに高う売る」。これに対して福子や克子が、それなら悪い人だと言います。

世良はそれを否定しません。「このご時世、ええやつも悪いやつもあるかいな」と。鈴から買った着物も、3倍の値段で誰かに売るそうです。

世良はこのご時世と前置きしましたが、しかし商売というのはそもそもこういうことです。例えば鈴が自分の着物をデパートに来る富裕層に売れば、世良に売った額の3倍のお金を手に入れることができるでしょう。でもこの、「富裕層に売る」という行為は誰にでもできるわけじゃありません。仮に鈴がデパートの前に出店を構えてこれを高く売ろうとしても、結局は安く買いたたかれるでしょう。物の価値の分かる人が、その価値通りの値段で買ってくれるわけではありません。誰しもがその商品の価値より安く買いたいし、いいものを安く出す人から順に買い手がつくのです。でも世良は鈴とは違います。今すぐにこの着物を売って生活をよくしたい鈴に対して世良は生活には困っていないのでいい買い手を探す時間的余裕があります。また、他人との交渉をまとめる折衝力があります。仮に着物に3倍の値がついて売れたとして、それは着物にそれだけの価値があったとは限りません。世良は、これをほしがる人を選りすぐることによって着物の価値以上の値段を買い手に出させることができるからです。これが商売であり、世良にはできて鈴にはできないことなのです。

しかしこんな当たり前のことを言っているだけの世良に鈴が「不公平」だと言い放ちます。自分だけ富を独占している、本当は3倍の値段を付けられるのにその価値に見合う対価を鈴に払っていない、という意味でしょう。

それに対して世良が反論します。

「あんなぁ、今は不公平の時代ですわ。
戦死した人間と無事で帰ってきた人間。
抑留された人間と帰国できた人間。
戦犯にされた人間と免れた人間。
闇で儲けた人間と儲けられへんかった人間。
飢えてる人間とたらふく食うてる人間。
焼け出された人間と焼け残った人間。
不公平が当たり前やのにそれに文句言うてる時点でもうあかんのです。」

これはこのドラマで一番力のある台詞になるのではと思います。ドラマの舞台は終戦直後ですが、世良の言うことはそっくり現代にも当てはめることができます。

人はそもそも不公平なんです。生まれる国、生まれる家、話す言葉、両親の生活水準、同じ人なんていないんです。自分ではどうすることもできない人生のこういった前提が、それぞれの人生に様々な違いをもたらします。一生お金に困らない人だっているし、先進国である日本でも家がなくて餓死する人もいます。不公平を悪だとしてそれを根絶しようと闘う人もいるでしょう。それは悪いことではないし、ある面では尊いことだと思います。でもそれよりも重要なのは自分と自分の大切な人たちが、それぞれの人生をそれぞれの望むように生き抜くことだと私は思います。その手段として、世の不公平を糾弾して是正を試みたところで、結果が出るのはいつになるのでしょう。この不公平という絶対的なルールの改正に挑むより、このルールの中でどううまく立ち回るかを考えた方が、自分の望みをかなえる上で現実的で直接的な方法であると思います。

実際に不公平を是正しようとして戦った人たちがいます。共産主義というものはそれそのものだし、今もそれを目指して戦っている人がいます。でも私は参加しません。協力もしません。共産主義の政府を作ることに成功したソ連は消滅したし、中国も平等なんて名ばかりな競争社会です。少なくとも私が死ぬまでの間、ずっとこの世界は不公平でしょう。だからその前提に立った上で自分の生き方を考えます。これが正しいわけではありません。正しいからするのではなく、自分に必要だからするのです。正しさにこだわって誰も幸せにできず死んでいくのは嫌です。私がしずかちゃんと一緒になった理由の一つは、彼女がこういう根本的な人生観を共有できる人だからです。

話がそれました。まんぷくです。

こう言う世良に対していい人なのか悪い人なのか分からなくなってきたと福子が言います。福子にとっては萬平の命の恩人である世良をいい人だと思っていたんでしょう。でも「いい人」ってなんですか?それ、福子にとって「都合のいい人」ではないですか?私も子供のころはテレビの戦隊ものを見て、あれはいいもん、これは悪もんと振り分けてました。福子の台詞にはそういう幼さを感じます。物事を「いい」か「悪い」かに分けられると思っている時点で世良とは差があります。

そんな福子に「ええ人なわけないやない」と鈴が相槌。話になりません。

世良は萬平に、不公平の負け組でくすぶってるのが残念だと言い残して立ち去りました。萬平はこれに触発されて何か始めるのでしょうか。と思った矢先、その日の夜、はんこがなくて配給を受け取れない人がいたという福子の話を聞いて、萬平ははんこを作って売ることをひらめきました。これは成功の予感です。

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