価値観の衝突

しずかです。

東京はたくさんの人が暮らす街です。人々の暮らしは様々で、とんでもない贅沢な暮らしをしている人もいれば、毎日ギリギリの暮らしをしている人もいます。上を見ればキリがありませんが、下を見てもキリがありません。どんな人も受け入れる懐の深い街とも言えますが、成功すれば青天井、踏み外せば奈落の底という、どちらも併せ持つ恐ろしい街でもあります。

私は、東京でいい暮らしをしたいと思っていました。いい仕事をして、いいところに住んで、好きなものを買って、話題のお店にも気軽にいけるようになりたい。そのために勉強したり本を読んだり、様々な活動団体に所属したりして、毎日アクティブに動いていました。1ミリでも上にいくために、背伸びして覗いた世界をなんとかして自分のものにする。到達したらまた背伸びして、さらに上の世界を狙う。これを何度も繰り返して、一段ずつ階段を上っている気になっていました。でも、自分がどこまで到達できたかを客観的に確認する手段はありません。収入や交友関係、持っているもの等で自分の成長を測って満足していました。この価値観に長年どっぷりはまっていたので、自分のアイデンティティとは、上を目指すことそのものになっていました。

努力の結果で得たものは、私の生活を充実させました。お気に入りのエリアにいいマンションを買って、ブランド物の家具やインテリアで飾りました。百貨店にいけば外商担当がつき、クレジットカードを使えばプラチナ会員の招待状が届く。上品な友人たちに囲まれて、紹介が紹介を呼び、交友関係は著名人ばかりになりました。このような環境が、自分が特別な存在であることを証明しているようで、満足感を加速させました。

そんな生活をしていたところ、ひょんなことから彼と出会い、交際がはじまり、将来について話すようになりました。どこに住んでどんな暮らしをするか、ありのままの価値観で私の希望を伝えました。すると、彼は「それは全部、見栄だ。それに付き合う気はない」と言ったのです。私は思考停止しました。

彼の言う、見栄という言葉の定義がよく分かりませんでした。私にとって見栄とは、人に自慢するために無理して何かをすることです。いいマンションに住むこともブランド物を使うことも、私にとってはごく当たり前のことだったので、それを見栄と言われるとは心外でした。今考えれば、見栄を見栄だとも思わないくらい、体に染みついていたのだと思います。例えばボールペン1本のことでも、「私が数百円のペンなんて恥ずかしくて使えない」「一流の人たちはみんな良いペンを使っている」「高級ブランドで有名なのはモンブラン」という私なりの理屈で、数万円もするペンを使っていました。当時の私は、このようなこだわりがほぼ全ての事柄に対してありました。そのため、彼に身の回りの持ち物やこだわりを否定されることは、これまでの努力や人生そのものを否定されているように感じました。当然ながら口論になり、彼とは生きてきた世界が違いすぎて合わないと思いました。その後も交際は続いていたものの、価値観の話になるたびに、何度も衝突しました。

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