考察:エボシが目指した理想郷とは

しずかです。

前回の記事の続きです。

エボシはシシ神退治に出かけるとき、「動ける男はみんなつれて」行きました。タタラ場の女と病人たちに留守を任せ、男たちを根こそぎ連れていったのです。村の男たちも、師匠連も石火矢衆もジバシリも、一人残らずです。もしシシ神との戦いでエボシたちが全滅すれば、タタラ場に残るのは女たちと病人だけです。エボシが信頼している仲間だけが残るタタラ場。これこそがエボシが考えていた王道楽土の姿だったのではないでしょうか。つまり、はじめからエボシはシシ神退治の機会を使い、男たちを皆殺しにするつもりだった。男たちに利用されてるように装いながら、本当は男たちを殺すつもりだったとは、まさにエボシらしいやり方だと思いませんか?

タタラ場の男たちまで道連れにする必要はなかったかもしれません。でも「男はたよりにできない」という台詞にあるように、そもそもエボシは男というものを信用していないようです。初登場のシーンでも、モロに襲われて谷底に落ちた牛飼いたちを見殺しにしていました。タタラ場でも役割分担がはっきりとしています。村の外へ米を運んだりするのは男の役目で、タタラを踏んで鉄を作ったり、新しく考案した石火矢を使わせるなどの重要な役目はいつも女たちが担っていました。男を飛び道具としか思っていないのは明らかです。

どうしてエボシがここまで男を憎むのかというと、やはり生い立ちが関係しているように思います。「売られた娘を見るとみんな引き取っちまう」のも、病人や弱者に寄り添うのも、過去の辛い経験がエボシの人格や意思決定に多大な影響を及ぼしているようです。そんな過去があれば、男は信用できない、利用されるくらいなら利用してやるという思考になるのは当然かもしれません。タタラ場にはいろんな仕事があるので、物を運んだり門を開閉するのは男にやらせているようですが、そんなに人数は必要ありません。石火矢衆も、森の開拓が済んだらもう用済みです。

そこで、シシ神殺しです。道中にもののけに襲われれば男の数を一気に減らすことができて、まさに好都合。生き残った男たちを自ら森の中で殺してしまうことだってできます。そもそもエボシはシシ神の首に興味はありませんから、シシ神を殺せなくても男の数を減らすことができれば目的達成です。エボシは「わたしたちがここで鉄をつくりつづければ森の力は弱まる。それからのほうが犠牲もすくなくすむ」と言っていて、わざわざシシ神を殺す意味を見出していません。シシ神殺しで留守の間に侍がタタラ場を襲っても「女たちにできるだけの備えはさせてある」ので、女たちが活躍してうまくいけば侍たちもこの機会に一掃できます。つまり、この勝負、どう転んでもエボシの勝ちなのです。

「こわいのはもののけより人間のほうだからね。シシ神殺しがすんだらいろいろわかるだろうよ」

というのが私個人の解釈なのですが、、エボシがシシ神殺しをする理由、皆さんはどうお考えでしょうか。

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